2013年4月7日日曜日

「岸の柳」

そら恐ろしいことですが、忙しすぎてもう10日もお三味線を触っていません。朝練すらできなかったこの状況…。1日休めば3日、3日休めば1週間、勘を取り戻すのにかかると言われる芸の道、10日休んでしまった俺っていったい… il||li _| ̄|○ il||li
ふたたび三味線に触る前に、次の課題曲「岸の柳」について下調べして、まずメンタルを取り戻そっと…。


「岸の柳」

制作年代 明治6年6月
作曲 三世杵屋正治郎

東両国の貸席で浴衣ざらいに封切られた作品。大川端から柳橋両国あたりの夏風景を諷った粋な曲。スッキリして涼味満点。(本調子、三下がり、本調子)
(「長唄名曲要説」より)

あう、ついに来たか、曲の途中で変調か。これが、虫六にとっては今回最大のハードルかも知れませんね。

<本調子> 〽筑波根の 合姿涼しき夏衣 若葉にかへし唄女が、
緑の髪に風薫る 柳の眉のながし目に、
其浅妻をもやひ船 〽君に近江と聞くさへ嬉し 
しめて音締(ねじ)めの三味線も、
誰に靡(なび)くぞ柳橋 糸の調べに風通ふ
岸の思ひもやうやうと、
届いた棹に 
<合三下り> 〽家根船の 簾ゆかしき顔鳥を、
好いたと云へは好くと云ふ、鸚鵡返しの替唄も、
色の手爾葉(てには)になるわいな、しどもなや
<本調子> 〽寄せては返す波の鼓 汐のさす手も青海波 
彼の青山の俤(おもかげ)や、琵琶湖をうつす天女の光り
其糸竹の末長く、護り給へる 御誓ひ 
〽げに二つなき一つ目の、宮居も見えて架け渡す、
虹の懸橋両国の、往来絶えせぬ賑ひも
唄の道とぞ祝しける」

曲の成立については二説あって、一つは近江屋という船宿の娘と近所の古着屋の息子が心中未遂の末に助けられて目出度く相愛の思いがかなって夫婦になったことを叙した(「君に近江」と船宿の屋号)という説、もう一つは、当時の鳴物師・岸田伊左衛門が柳橋の芸妓となじみ、念いがかなって夫婦になったことを詠み込んだ(岸田の‘岸’と柳橋の‘柳’を詠結んだ曲名)という説だそうです。岸田伊左衛門という演奏家がいつ実在したのが手元の資料ではよくわかりませんが、いけてる芸妓さんを射止めたというので、仲間が「やったな、おめでとう!」みたいなノリで作ったのかと思うとちょっと楽しい。

作曲をした三世杵屋正治郎(1827〜95)は、明治前半に活躍した長唄三味線方。新富座開場式のために《元禄風花見踊》を、九代目團十郎や五代目菊五郎のために《土蜘》《船弁慶》《素襖落》などの松羽目物舞踊劇を作曲した人物。過去の長唄曲を参考にしつつ、時代の要求に沿った魅力的な新曲も手がけたそうです。また、《京鹿子娘道成寺》のチンチリレンの合方、《鷺娘》の新合方、《勧進帳》の滝流しの合方のように既存曲に、三味線が技巧を発揮できる合方を作曲して挿入し、唄だけでなく、三味線の聞かせ所を作ったのも、正治郎の功績…とのこと。
長唄三味線の中興の祖という感じでしょうか。

曲節としては、第1の特色は「初夏の爽やかな季節感がよく出ている」ということだそうで、「大川、船、柳橋付近の水辺の叙景と、風薫る川辺の夏気分が、粋な旋律のうちに滲み出ている点は長唄中の傑作」だそうです。

スッキリ、粋に弾けと…。求められる次の課題は「爽やかな色気」ということでしょうか…。

隅田川に面した柳橋は江戸中期から栄えた花街で、明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されましたが、柳橋芸者の方が歴史もあり、新橋よりも格上とされていたんですよね。プライドも高いという。

柳橋といえば、虫六がはじめてお浚い会を経験したのは、柳橋芸者の代名詞(?)市丸さんのご自宅を改装してイベントギャラリーにした「ルーサイト・ギャラリー」でしたが、狭い階段をのぼって2階の小さい座敷で行った演奏会でした。窓から隅田川が眺められて、江戸情緒を満喫できる建物でした…。あのとき、たしか、兄弟子Kさんの出し物が「岸の柳」でしたな。あ〜、そういう選曲だったのですか…!と6年目にして理解した虫六でした(爆)。

それにしても、市丸さん、きれいだな〜。瓜実顔で、スッキリと小股の切れ上がった…という日本型美人というのはこういう人をいうんだな。

【今日の参考文献】
「長唄名曲要説」(昭和51 浅川玉兎著)
「日本の伝統芸能講座 音楽」(平成20 淡交社)



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